2012年11月28日水曜日

弘法は筆を選ばず

弘法とは、篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白を書き分け、中国では五筆和尚と呼ばれ、橘逸勢・嵯峨天皇とともに、平安の三筆と称される弘法大師空海のことだ。

物事の上手な人は道具の良し悪しを問わない、ということだが、空海自身が言ったことではない。逆に、空海自身は筆の良し悪しによる文字の出来不出来を言及をした形跡もある。

それはさておき、
今や、写真家の筆とも言うべき、デジタルカメラは各メーカーからシーズン毎にリリースされ、その様子は百花繚乱の趣で、何を選んでいいかさっぱりわからない状態である。

かつての写真専門学校のように、まずはマニュアルのニコンFM2を購入して原理を学び、徐々にステップアップするようなことはなく、それぞれのカメラに解像度や画像処理エンジンを含めた微妙な機能の違いがあるため、基本となるカメラというものがまったくない。

絞りやシャッター速度の関係は昔は蛇口から出る水の量なんかで例えられていたが(実際、僕は畠山直哉さんにその講義を受けた)デジタルカメラにそのアナロジーはあまり有効ではないだろう。

そういうデジタルカメラの繚乱とは逆に、もうiPhoneのカメラで充分ではないかというカメラマンも増えてきているし、事実、iPhoneで仕事の写真を撮る人もいる。

かつてのカメラ雑誌では、カメラの機種、レンズ、絞り、シャッター速度、フィルム感度、フィルムの種類、プリントの種類まで克明に記録されていたこともあるが、そういうデータはあまり有効ではなくなってきるのは確かだろう。

カメラ愛好家にはためになる情報かもしれないが、同じ条件ではないと、カメラが違えば、撮影素子のサイズすら違うのだから、比較するだけでも別の計算が必要になるので面倒で誰も調べたりしないだろう。

iPhoneの撮影情報を知りたいと思う人もほとんどいないと思う。結局のところ、皮肉にもマニアックな撮影情報から逃れて、純粋に内容として見られるようになったのは、iPhoneなどのスマートフォンのカメラ精度が急激に高くなったということだろう。

現代の弘法たち(写真家)は、高い筆(カメラ)を買わなくても、携帯電話に付属したカメラで充分に良い写真を撮れる時代がやってきたということだ。(三)


2012年11月27日火曜日

逆ジレットモデルとしての日本

衆院解散になり、日本でも有象無象の権力闘争が繰り広げられれている。

市民のもっとも求めることは、震災復興も含めた景気の回復だろう。その中で、日本の産業の象徴だったエレクトロニクスを含めて、日本の経済が相対的に弱くなっているニュースばかりが目立つ。

日本では、高度成長期のような経済成長はすでに見込めない。それは誰もがわかっているころだろう。公共事業による景気回復ももう効果が薄いことも歴然としている。やはり新産業を作らないと抜本的な成長や景気回復は望めないのだ。

問題は経済成長だけではなく、高度経済成長期やバブル期に作った様々なインフラや公共施設が老朽化していき、日本という身体を蝕んでいくということだ。

高速道路にせよ、上下水道にせよ、トンネルにせよ、橋梁にせよ、原発にせよ、すべての大型設備は40年近くたち、老朽化している。
街中ではいたるところに老朽化した設備が通っており、上下水道が破裂して、水が噴出したり、橋梁が落ちたり、トンネルが欠けたりし始めている。原発の事故も一番古いタイプで、老朽化していたのに、改良をしていなかったことが大きい。
原発ほどの事故ではなくとも、日本中で小さな瓦解が起きているのだ。

ジレットモデルという、有名なビジネスモデルがある。ジレットという、髭剃りでは、本体ではなく、刃を替えることで儲けるというビジネスモデルのことをいう。
それによって、髭剃りを安くしても、フローで儲けることができるのだ。

今、日本は、逆に巨大な公共事業をしまくった結果、老朽化したものを新陳代謝していない。ようやく大きな事故によって、新陳代謝の必要に迫られていることが明らかになってきた。

しかし、新陳代謝にはお金がかかる。日本が拡大するとともに、戦線を拡大しすぎたため、全部を直すとなると膨大なお金がかかる。
ジレットモデルとは逆に、業者も作る時に儲けて、メンテナンスで儲けることを考えてこなかった結果、膨大なつけが40年後にのしかかってきたのだ。

人口が縮小していく中で、何を維持し、何を放棄するか、という決断が今必要になってきている。それは新たな日本列島改造計画でもある。
(三)


2012年11月25日日曜日

伝統の起源

日本の伝統と言った時に代々日本純血で受け継がれてきたものだと誰でも想像するだろう。

しかし、意外にその起源を考えると、ハイブリットなことも多い。例えば、茶道である。そもそも茶は、喫茶養生記を書いた臨済宗の栄西の頃に、薬として日本に入ってきた。これも日宋貿易に邁進した清盛の恩恵である。

当時は薬としての意味合いが強かったがわび茶の原点となった、村田珠光は、一休禅師の弟子で座禅の際の居眠り防止のために、お茶を勧められたことからお茶を始めた。

わび茶をセレモニーとして完成させたのは利休だが、濃茶の回し飲みについては、弟子だった高山右近などのキリシタン大名のカソリックのミサで行われるワインの回し飲みの習慣から影響を受けたという説がある。

少なくとも、日本の伝統の一つと思われている茶道には、宋とポルトガルの二つの国の習慣のハイブリットなものが起源であると言える。

また、ピアノがなぜ黒いのか、というのもあまり知られていないが、もともと19世紀にピアノが現在の形へと完成する際、日本の漆器が流行していたため、漆器に似せた着色技術が発展しピアノに採用されたのだ。それ以前のチェンバロやピアノは黒ではない。

西洋音楽の権化のようなピアノのイメージである黒は、日本の漆器の色なのである。これも伝統の起源が純血ではない例だろう。

我々の文化は常に、交配と純血が交互に表れている。そして、伝統と思われる起源には常に交配の影があるのだ。伝統という言葉を使う前に、その起源について考えるという癖をつけることは、深く伝統を知るためにとても重要な視点である。(三)



2012年11月24日土曜日

写真の流用

先日、とある大物の著作権と所有権の契約書の案を頼まれて作った。

写真の著作権というのは、かなりいい加減でないがしろにされていると思うが、作家の方も著作権の知識は低い上、出版社やユーザーの権利意識が低いのも確かである。

電子書籍が日本でなかなか普及していないのも、アメリカのように著作権譲渡契約を結んでいないため、すでに出版された出版物でも、再度、電子書籍に関して契約をしなおさなければならず、そこに膨大な労力がかかるからだ。

この辺を説明するとややこしいので、次回に譲るが、僕が以前、ブログでUPした盆踊りの写真が、我なが良い写真だったのか、ブログだけではなく、いろんなサイトで勝手に流用されている。

なかには、このサイトのテキストや画像の著作権は、サイトに属するので勝手に利用するな、という文言まで入っているものもある。
まあ、どこかの業者がGoogleの画像検索からパクって、クライアントには言ってないのだろう。
「おい、おい」と突っ込みたくなるのだが、ネットというものはそういうものだ。

僕という撮影主体を越えて、写真はどんどん流用されていく。
もっと使われてから、いっきにサイトに突っ込んでみたら、どんな反応をするのか試しみたい気はしている。(三)


四季と時

四季の美しさは、朝、昼、夕、夜の時間と対応している気がする。春の朝、夏の昼、秋の夕、冬の夜がそれぞれの季節の中で一番その季節らしく、らしいからこそ美しいのかもしれない。(三)


古くなる新しさ、新さのなかの古さ

アメリカ大統領選挙が一段落したと思ったら、共産党大会が開かれ、日本の衆議院解散総選挙もそろそろかという話題がニュースをにぎわしている。

ついに日本でも二大政党化し、民主党が政権交代劇を繰り広げた前回とは隔世の感がある。その間に、とんでもないことが起こりすぎて、それに対応するにはあまりにおそまつな政権であったことはほとんどの方が同意する事実だろう。


今回は、第三極が鍵になると言われ、日本維新の会がやや支持率を落としながらも、石原新党とともに話題になっている。(後に合流した)

維新とは「チェンジ」の意味であり、スローガンとしてはオバマ政権と変わらない。
もともとの意味は『詩経』「大雅・文王篇」の一節である「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」からとられているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0

どちらにせよ、政治に関して言えば、「新」を使うのだ大好きな国民である。日本新党、新生党、新進党、新党日本etc.など枚挙にいとまがない。
今、考えればその時点では新しいかもしれないが、後々古くなることを考えてないのだろうかと首をかしげてしまう。
そもそも何をやりたいのか名前からは想像ができない。

日本維新の会は、もちろん、明治維新からの影響はあるので、かつての日本の大事業への郷愁が含まれている。
しかし、明治維新は、大政奉還、王政復古から始まるように、政治的実権が、将軍から天皇に返還される、ルネッサンス運動であったと言ってもよい。新しくするための古典回帰運動でもあったのだ。

新しいものがよいわけでもないし、古いものがよいわけでもない。新しさもいずれ古くなるし、古いものの中に新しいものを発見することもある。

新旧という時間軸で争っている時代がどこまで続くのかわからないが、新しい以外の価値観が出てきたときにようやく日本の政治も落ち着くのではないかと勝手に予想している。(三)


片手で撮るか両手で撮るか、片目で見るか両目で見るか


アナログカメラがデジタルカメラに変わって以降、ファインダーではなく、液晶モニターを見ながら、両手で撮影するようになった。

もちろん、一眼レフデジカメになると、まだまだファインダーを見て撮影することが多いが、コンパクトデジカメやスマートフォンは、ほとんど両手で液晶モニターを見て撮影していると思う。

これは写真の内容だけではなく、撮影するという身体性をかなり変更させていると思う。特にスナップショットのような、被写体を素早く捉える撮影は不可能だ。ただでさえ、デジタルカメラの反応速度は遅い。

かつては、スナップという字義通り、魅力的な被写体を一瞬にして撮影するために、片手でカメラを持って「居合い」のように撮影する人も多かっただろう。そういう光景は今やほとんどお目にかかれない。
逆に、両手を前に出して前にならえのように撮影する人々とすれ違うことが多くなった。

特にそのような撮影を必要とされるのは戦場だろう。カメラマンは一瞬に撮影して体を移動させることができるため、被写体を継続的に撮影しなければならない ビデオカメラマンと違って、的になりにくいと言われてきた。しかし、液晶モニターを見ながら、両手で撮影していたら、危険極まりないだろう。

しかし、一昔前まで、ガラケーと揶揄される携帯カメラは、片手を突き出して撮影していた。それは撮影する行為の新たな形を提示していたように思う。
その意味では、現在のデジタルカメラやスマートフォンは、その身体性において退行している部分があるのではないだろうか。
撮影する、というより、撮影した写真を確認することに主眼が置かれているのだ。

特に気になるのは、日本のメーカーの極端な懐古趣味的デザインだ。どこも高級感を出すのに、古いカメラのデザインを踏襲している。
デジタルになったのだから、レンズやフィルムなどの制約は少なくなっており、もっと自由なデザインが可能なはずなのだ。

その証拠に、かつて三洋に片手で持つことのできるカメラとビデオの中間のようなデバイスがあって結構売れていたことを覚えている。

日本人は昔からアナログカメラの人口が多く、その人々たちの懐古趣味や馴染みの操作性のニーズがあるのだろうが、世界の人々にそれを押し付けるのはあまりにも発想が乏しいのではないかと思う。

個人的には、もっと大胆で革新的なカメラの形を出ることを期待している。例えば、片手でガンのように高速のスナップショットができるようなカメラがあれはすぐにでも欲しい。

そういう差異をつけなければ、カメラ単体である必要はあまりなく、スマートフォンで充分なのだ。
そういう新しいカメラを作り出さなければ、最後の牙城と言われている日本のカメラも外国勢に出し
抜かれてくだろう。(三)