2013年12月21日土曜日

雲と電線の前の月



雲と電線の前の月

犬飼とも+ワタノハスキッズ『ワタノハスマイル―笑顔になったガレキたち-』


「ワノハスマイル」というプロジェクトを初めて知ったのは、編集者、都築響一さんのメールマガジン「ロードサイダーズ」もしくは、クラウドファンディングのサイトだったのではないかと思う。
クラウドファンディングは、不特定多数からインターネットを使って資金調達するためのウェブサービスとしてアメリカで普及し、日本ではちょうど2011年、震災の年にスタートした。そのために、当初は震災がらみのプロジェクトが多く、その傾向は今でも続いている。
ワタノハスマイルは、震災関係の多かったクラウドファンディングの中でも非常に秀逸なアートプロジェクトとして注目をされていた。もともとは、宮城県石巻市渡波(わたのは)小学校において、校庭を中心に置かれていた大量の震災瓦礫を使った、子供達のオブジェ制作のプロジェクトとして、造形作家の犬飼とも氏が始めたものだ。

宮城県から山を越えた山形県在住の犬飼氏は、震災前から海に流れ着いた瓦礫を使ったオブジェ制作やワークショップを行なっており、震災後、避難所となった渡波小学校でボランティアをしながら、このプロジェクトを立ち上げた。
出来上がったオブジェの多くが、笑顔でキャラクター性があり、見ている人も思わず微笑んでしまうものがたくさん誕生した。震災直後の過酷な状況の中でも、笑顔を生み出したことに由来し、事後的に「ワタノハスマイル」と命名されることになった。
オブジェはたちまち評判となり、日本中で展覧会が行われ、ついにはイタリアにも招聘された。クラウドファンディングはその時の子供と親御さん達の渡航費捻出のために活用されたのだと思う。

人類学的な用語では、このような行為をブリコラージュと呼ぶのだろう。しかし、ここまでブリコラージュの思想を体現しているプロジェクトも珍しい。震災直後で遊び道具のなかった子供達の想像力を、震災瓦礫とグルーガン(ガンタイプの接着機器)だけで引き出したということが多くの人達にとって驚きであったし、オブジェの面白さが思わず応援したくなるということも大きかった。
もちろん、オブジェだけでも面白いのだが、その誕生は震災とは切っては切れないし、震災の瓦礫で子供達が作ったものでなければここまで評判にならなかったかもしれない。瓦礫の一つ一つが代替のないバラエティのあるものであったことも大きい。(犬飼氏は瓦礫を元々は住んでいた大切な町から生まれたものだとして「町のカケラ」と呼んでいる)

当初、犬飼氏は大量の震災瓦礫をアートに変え、それを売って瓦礫を片付けるという大きな構想を持っていたようだ。その目論見は途中から玩具の寄付がどんどん届いたことと、瓦礫が処理されていったことで方向転換せざるを得なくなったようだ。しかし、震災後1ヶ月という非常に早い段階でこのプロジェクトを実施したことは時間を経るごとにその価値を増すだろう。

震災から3年を前にプロジェクトが一冊の本として編纂され、改めて子供達がこれだけ楽しく、明るいオブジェを生み出したことに驚かされる。当時は大人達は相当に気分も滅入っていたことは想像に難くない。実際は、単純な美談として語れるほど容易なプロジェクトではなかっただろう。
この本には、失った痛みと作る喜びが同居しているが、掲載されているオブジェがそれを乗り越える希望や笑顔をもたらしている。歴史的な事実として記述される価値のあるプロジェクトであり、制作した子供達にとっても多くの人々にとっても、震災下において作り出した希望として常に参照される役割を担っていくだろう。
また、写真家、大森克己が捉えた子供たちの笑顔やスナップショットも、本に彩りを与えている。改めて日常にある物と時間の愛おしさが感じられる本である。

2012年12月3日月曜日

縦か横の時代

写真のサイズが高さと幅の違いがある限り、横と縦のどちらで撮るかという判断は常につきまとう。

単純に言えば、幅の広い被写体は横だし、幅の高い被写体は縦ということになる。
かし、これを見せるという段階になると、いろいろやっかいなことが出てくる。
例えば、ファッション雑誌などの人物写真は縦が多いだろうし、また、旅雑誌などになれば、横位置の写真が多いだろう。
しかし、横の写真は、雑誌や本が、見開きという、2ページまたがる特性があるから成り立つものである。

タブレットのような1画面しかない場合、見開きのようなレイアウトをすると写真が2画面にまたがってしまい見にくいものとなる。
たとえ、タブレットを横にして、2ページ分を1画面で見たとしても、とても小さくなってしまい、見開きによってサイズを大きくする雑誌とは真逆の効果になってしまう。

また、タブレットを横にして、ページめくりするのは持ち手が疲れるという問題もある。やはり、タブレットを電子書籍的に扱うのなら、縦に持つのが自然だろう。
逆に映像ビューワーとして扱うならば、横位置で置いて見るのが自然だということになる。

そうしたとき、写真を静止画として見る場合は、縦画面で見て、スライドショーなど動画として見る場合は、横画面で見るという、縦と横の特性が大きく影響する時代になるのではないかと思う。

そもそも、35mmフィルムのカメラは、映画フィルムの露出計として開発されたものであるので、横位置で撮ることを想定されていたものだ。それが、メディアとして独立性を持つことになり、縦位置の写真も多くなっていった。
当時の主な媒体は縦位置の雑誌であったことも大きい。

デジタルカメラの時代になり、横位置は電子映像への親和性を高め、縦位置は電子書籍への親和性を高めていき、今後写真撮影は縦横をより意識しなければならない時代になっていくだろう。(三)
http://shadowtimes.net/





デジカメの耐えられない軽さ

昨日から、勝又邦彦さんの初期作品を少しずつUPしている。
もちろん、フィルム写真でプリントされたものだ。

勝又さんに写真を見せてもらったのは90年代の後半のことだが、その頃は夜間で長時間露光で都市と自然の拮抗する風景を撮影していた。
そのバランスは危うく脆いながら、長時間露光によってもたらされた重層性のある艶かしい色合いに惹かれたものだ。
同時に、移動するものは存在の痕跡を残しておらず、そこにある土地や物だけがくっきりとその存在感を露にしているという感覚を覚えた。

改めて写真を見ても、やはりデジカメで撮影した写真とは決定的な違いを受ける。
その差は、そこに物質的なバックボーンが薄いからなのかもしれない。マテリアルが強調される勝又さんの写真には、長時間露光によってたっぷリ夜の光が何層にも定着されており、さらに銀塩プリントに転写されている。
そこには確かに物質を経由した痕跡が残っている。

一枚のデジタル画像になったとしても、それをはっきりと認識できることがデジカメの画像との印象の違いだろう。言うなれば、何時間も煮込んだ出汁のラーメンと、インスタントラーメンの違いと似たようなものだろうか?

デジカメ全盛期において、フィルム写真家はどんどん少なくなるが、フィルム写真は、かつての版画のように、メディアの第一線を譲って、アート作品として残っていくだろう。(三)


http://www.facebook.com/shadowtimes.net






冬の足音

冬の足音というが、冬になると街行く人々も足早になる。冬の足音につられて人々の足音も大きくなっていく。(三)


2012年11月28日水曜日

弘法は筆を選ばず

弘法とは、篆書、隷書、楷書、行書、草書、飛白を書き分け、中国では五筆和尚と呼ばれ、橘逸勢・嵯峨天皇とともに、平安の三筆と称される弘法大師空海のことだ。

物事の上手な人は道具の良し悪しを問わない、ということだが、空海自身が言ったことではない。逆に、空海自身は筆の良し悪しによる文字の出来不出来を言及をした形跡もある。

それはさておき、
今や、写真家の筆とも言うべき、デジタルカメラは各メーカーからシーズン毎にリリースされ、その様子は百花繚乱の趣で、何を選んでいいかさっぱりわからない状態である。

かつての写真専門学校のように、まずはマニュアルのニコンFM2を購入して原理を学び、徐々にステップアップするようなことはなく、それぞれのカメラに解像度や画像処理エンジンを含めた微妙な機能の違いがあるため、基本となるカメラというものがまったくない。

絞りやシャッター速度の関係は昔は蛇口から出る水の量なんかで例えられていたが(実際、僕は畠山直哉さんにその講義を受けた)デジタルカメラにそのアナロジーはあまり有効ではないだろう。

そういうデジタルカメラの繚乱とは逆に、もうiPhoneのカメラで充分ではないかというカメラマンも増えてきているし、事実、iPhoneで仕事の写真を撮る人もいる。

かつてのカメラ雑誌では、カメラの機種、レンズ、絞り、シャッター速度、フィルム感度、フィルムの種類、プリントの種類まで克明に記録されていたこともあるが、そういうデータはあまり有効ではなくなってきるのは確かだろう。

カメラ愛好家にはためになる情報かもしれないが、同じ条件ではないと、カメラが違えば、撮影素子のサイズすら違うのだから、比較するだけでも別の計算が必要になるので面倒で誰も調べたりしないだろう。

iPhoneの撮影情報を知りたいと思う人もほとんどいないと思う。結局のところ、皮肉にもマニアックな撮影情報から逃れて、純粋に内容として見られるようになったのは、iPhoneなどのスマートフォンのカメラ精度が急激に高くなったということだろう。

現代の弘法たち(写真家)は、高い筆(カメラ)を買わなくても、携帯電話に付属したカメラで充分に良い写真を撮れる時代がやってきたということだ。(三)


2012年11月27日火曜日

逆ジレットモデルとしての日本

衆院解散になり、日本でも有象無象の権力闘争が繰り広げられれている。

市民のもっとも求めることは、震災復興も含めた景気の回復だろう。その中で、日本の産業の象徴だったエレクトロニクスを含めて、日本の経済が相対的に弱くなっているニュースばかりが目立つ。

日本では、高度成長期のような経済成長はすでに見込めない。それは誰もがわかっているころだろう。公共事業による景気回復ももう効果が薄いことも歴然としている。やはり新産業を作らないと抜本的な成長や景気回復は望めないのだ。

問題は経済成長だけではなく、高度経済成長期やバブル期に作った様々なインフラや公共施設が老朽化していき、日本という身体を蝕んでいくということだ。

高速道路にせよ、上下水道にせよ、トンネルにせよ、橋梁にせよ、原発にせよ、すべての大型設備は40年近くたち、老朽化している。
街中ではいたるところに老朽化した設備が通っており、上下水道が破裂して、水が噴出したり、橋梁が落ちたり、トンネルが欠けたりし始めている。原発の事故も一番古いタイプで、老朽化していたのに、改良をしていなかったことが大きい。
原発ほどの事故ではなくとも、日本中で小さな瓦解が起きているのだ。

ジレットモデルという、有名なビジネスモデルがある。ジレットという、髭剃りでは、本体ではなく、刃を替えることで儲けるというビジネスモデルのことをいう。
それによって、髭剃りを安くしても、フローで儲けることができるのだ。

今、日本は、逆に巨大な公共事業をしまくった結果、老朽化したものを新陳代謝していない。ようやく大きな事故によって、新陳代謝の必要に迫られていることが明らかになってきた。

しかし、新陳代謝にはお金がかかる。日本が拡大するとともに、戦線を拡大しすぎたため、全部を直すとなると膨大なお金がかかる。
ジレットモデルとは逆に、業者も作る時に儲けて、メンテナンスで儲けることを考えてこなかった結果、膨大なつけが40年後にのしかかってきたのだ。

人口が縮小していく中で、何を維持し、何を放棄するか、という決断が今必要になってきている。それは新たな日本列島改造計画でもある。
(三)